1912年1月17日にイギリスで初めて南極到達を果たした、ロバートファルコンスコット。今年は100周年で、これを記念してナチュラルヒストリーミュージアムでは、エキシビションが行われています。
南極大陸には彼らが世界で初めて到達する予定だったのですが、残念ながら彼らが到達する一ヶ月前に、ノルウェーのアムンゼン隊に先をこされてしまいました。それだけではなく、残念な事にスコット隊は南極点から帰る途中になんと全員死去。今回の展覧会は、イギリス出向から3年に渡る「テラノヴァ号の探検」、そして最後のスコットや他の隊員の日記や遺書まで、彼らの人生が一つの空間に詰まった、素晴らしくそしてとても感動的なものでした。
スコット隊の南極到達目的はもちろん"世界初"。それと同時に、チームに含まれていた動物学者や科学者などによる、南極の動物、地理の調査も目的の一つでした。それに対してアムンゼン隊は、好奇心だけというか目的は一つ、ただ南極点に到達することだけ。この違いが、最終結果に大きな影響をもたらしたとも言われています。
ただ、何故かスコット隊は2番手だったのにも関わらず世界的に有名。それは、スコット隊が調査結果や標本採集の資料などをたくさん残したから。そして、先に到達したアムンゼン隊が帰途に全員遭難死した場合に備え、2番目の到着者に託した "初到達証明書" としての手紙を、最後までスコットが持っていた事も美談としてしられています。これによってアムンゼン隊が最初に到着した事が証明され、同時に自らの敗北証明を持ち帰ろうとしたスコット隊の紳士さが、彼等の名声を高めたです。
勝ち負けの話ではないのですが、スコット隊が負けた理由や、遭難した原因はたくさんあったそうです。標本や調査結果の資料の量が多すぎて重荷になっていたにも関わらず、手放さずに持ち帰ろうとしたことや、調査時間を費やしすぎたことも原因にあるそう。ただ、この調査資料が後に、世界の動物学や地層学に影響を与えたのも事実。スコット隊が集めた標本、資料は今現在でも全て、ナチュラルヒストリーミュージアムに地下に保存されているそうです。
彼らの出発が予定より一ヶ月遅れたことによって、帰る途中に悪天候に見舞われてしまった事などもエキシビションで知りました。ただ、これらのリスクはスコット自身も知っていたそうで、彼の日記には「たくさんの事が私達に反している。だけど、そのリスクを知って、そしてそのリスクを選んだのは私達。だから文句は言えない」と記されています。
帰る途中は荒天が続き、食料も激減し、テントに閉じ籠るしか出来なかった彼ら。そして2月16日隊員の一人、エヴァンスが最初に凍傷によって息をひきとり、3月14日にはもう一人の隊員、オーツが凍傷で重体。そしてオーツは自分がスコットのお荷物にならないようにと、3月17日彼の誕生日の日に「ちょっとそとへ出て行く、
もしかしたらしばらく帰ってこないかも」と言い残し、テントから出ていき二度と戻ってこなかったそうです。スコットの最後の日記は「我々の体は衰弱しつつあり、最期は遠くないだろう。残念だがこれ以上は書けそうにない。神よ、どうか我々の家族をお守り下さい」と、3月29日付けて終わっていたそう。
スコット隊が南極大陸に建てたステーション(小屋)は、エキシビションで再現されていた。しかも、この小屋は未だにそのままの状態で、南極大陸に保存されているそうです。行ってみたいと思ったが、南極大陸だという事をてっきり忘れていた。寒そうというか、マイナス40℃には残念ながら耐えられないでしょう。
ちょっとした好奇心で、家に帰ってから日本人はいつ南極に行ったのかが気になり、調べてみました。するとどうやら同じ時期に、白瀬 矗という人が南極に行っているのですが、彼らのチームは途中で断念したので南極点には到達できなかったそうです。ただ、たまたま出ていた情報を読んでみたら、なんだか日本人とは思えない。あまりの無計画さと、その行動に笑ってしまうくらいの内容で驚きました。それに対して、スコット隊の行動や日記からは、イギリス人だな~と思わせることが数多くありました。
最後に、スコットの日記にあって一番心に残った言葉を。
「私達は南極点に達した。だから紳士の様に死のう。
ただ、置き去りにしてきた私達の女性達のことだけを後悔する。」
宮迫 亜矢 AYA MIYASAKO
1998年渡英。
ロンドンを拠点にフットワーク軽く世界を飛び回り、ホーム&
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デザインの分野でディレクター、コーディネーターとして活躍中。京都出身。