夏の尾を引っ張りながらお昼はまだまだ汗だくで、夕方から夜には少しずつ空が高くなってきて雲のカタチも変わってきた最近。道ばたには短い命を燃やし終えたセミ爆弾たち。9.11.同時多発テロから10年。
そして震災から半年が経ちました。
夜中、何の気なしにつけた久しぶりのテレビに映ったドキュメンタリー。番組の名前は「東北夏祭り~鎮魂と絆~」。東日本大震災の大津波に飲み込まれ、壊滅的な被害を受けた陸前高田市に住む人たちに密着した番組でした。毎年8月7日に行われる“ 陸前高田 うごく七夕まつり ”。12台の華やかな山車が、豪快なお囃子を鳴らしながら街中を練り歩くという、日本でも珍しいお祭り。
道路も建物も木々もなく、ただ瓦礫だけが残された変わり果てた街のどこかで七夕まつりの山車が発見されました。かろうじて残った3つの山車。動くのかどうか分からない山車を目の前に、地震と津波で死んでいったたくさんの仲間たちの魂を鎮めるべく、地元の青年の方々が立ち上がりました。
家、家族、親戚、友人をなくしたこんな大変な時に祭りなど・・・という意見があったりもする中、青年団リーダーに届いた1通のメールが背中を押します。一気に6人のご家族を失った父親からの言葉。「誰よりも祭りを愛していた息子のために自分がしてやれるのは、今年も山車を出してやることだけだから」。
そんなリーダーの方も、同じ太鼓役としてライバルであった親友を亡くしていました。散り散りになった祭りの仲間たちを仮設住宅に訪ねたり、年長者の協力を仰ぐべく何度もお願いに出向いたり、浸水してしまって使えなくなってしまった飾りを作り直すために避難所のおばあさんを訪ねたり、街中を奔走します。後ろ向きだった人たちの心は、お囃子の練習の音や錆び付いていたけれど動き出した山車の姿に引き寄せられ、絆が芽生えていきます。
祭りの日。
朝までかかった飾りも完成、見事に復活した山車に集まる人々。毎年山車を担いでいたおじいさんの位牌を持って出番前の山車を観に来たおばあさんと娘さん。「今年も見られたなあ、よかったなあじいさん。もう大丈夫だべ」中央に鎮座する太鼓。乗り込んだ青年団の方々は、担ぎ手、太鼓役それぞれ亡くなった仲間の写真を、かつての所定の場所に貼り、山車が動き出す。それぞれの思いを抱きながら、緊張と昂揚中、街を練り歩く山車。太鼓とお囃子と掛け声が響きます。
夕闇せまる時、うごく七夕まつりはフィナーレへ向かいます。遠くに山々を眺めながら山車は廃墟となった中心街へゆっくりと入っていきます。見物客はだれもいません。あるのは威風堂々と動く山車、そして響くお囃子と太鼓、掛け声、昼と夜の間、街が青くなる夕闇の中、光を増す山車の提灯の灯り。山車を止め、静かに黙祷します。「みんなこの太鼓の音がきこえますか。この光が見えますか。またここにもどってきてください」松原の海へ向かって叫ぶみなさんの姿に涙が止まらなかった。
「祭り」は死者の魂を鎮めることと生ける者とが交流し、力を与えてくれる。そして“待つ”、つまり仏様になった死者の魂が地上で待ち、天へ昇っていくのを生きる者たちが盛大に送り出すという意味も含まれているらしく。目に涙を浮かべながら、前を見て天を見て懸命に山車を引き、声を上げお囃子と太鼓をたたく陸前高田の人たちの悲しくも美しい姿はとても強く、心を鷲づかみにされました。この街で生きる、という人々のとても強い意志を感じました。陸前高田は必ず復興する。
目が覚めると家の前では例大祭が行われていました。
いくつもの御輿が神社へ向かって、たくさんの出店がでて街は笛の音を掛け声であふれていました。
震災から半年。
ひとつになったと思われた日本は、今はバラバラになってしまったように思います。状況はどんどん悪くなってきていると思う。原発、迷走する国家。感覚のおかしなマスコミ、情報格差。
3.11.9.11.
とても悲しい数字になってしまったけど、消えることはないけれど、今を生きることができている僕らは、愛しいや、楽しい、たいせつや夢、希望、笑顔を以て、少しずつでも上塗りしていくことができるはず。強く生きようと思ったのでした。
亜童 A.D.O
フリーランスの編集者、ライター、ディレクターとして雑誌やWEB、広告、映像のディレクションをつとめる。雑誌『THE DAY』(三栄書房刊)のクリエイティブディレクターとしても活動中。人生一度きり、の思いを掲げ、自らのお尻を叩きながら前へ前へ。
鹿児島出身、目黒区在住。
http://thedaymag.jp/