STORY of MY LIFEINTERVIEW with KEIZO SHIMIZU

清水慶三とネペンテス。
その足跡とこれから。

「ネペンテス」の立ち上げから27年。スタンスはどんなときにも揺るぎなく、試みは常に新鮮。王道と反骨精神が入り交じる刺激的なラインナップで、ファッション関係者や洋服好きを魅了してきた清水慶三。柔軟な発想と果敢な行動力で、既成の概念など軽やかに打ち破ってきた稀代の開拓者。その半生をここに紐解く。

Interview & Text : Hideki GoyaPhotography : Tokuro Aoyagi

1958年7月1日、山梨県甲府市で2軒の映画館の支配人を務める父と、洋裁が得意な母の間に次男として誕生した清水慶三。物心がついた頃、清水の楽しみは、3つ年上の兄を追いかけるように始めた野球と、両親に連れられて行った買い物だった。
「小学生の時は年に2度、新宿の「伊勢丹」や「三峰(Mitsumine)」に洋服を買いに行っていました。兄と一緒に当時全盛期だった〈VAN〉の服を買ってもらうのが楽しみで。買い物のあとには後楽園遊園地に連れて行ってもらったりして。父は映画の仕入れでたびたび東京に来ていたようで、その際に「伊勢丹」でスーツのカスタムメイドをしていたり、母は洋服を手作りしていたり、自然とファッションに興味を持つような家庭環境でしたね」中学生の時は野球に打ち込んだ。日常生活では積極的に前に出て人目を引くようなタイプではなかったが、大舞台ではつい張り切ってしまう少年だったという。
「チームで一番足が速いわけでもないし、ホームランバッターでもなかったが、試合の成績は盗塁王で首位打者だった。出場していた県大会の決勝戦がテレビ中継されたことがあるんだけど、その時は燃えたね。ビハインドの場面で逆転の三塁打を打った。3塁には余裕で間に合うタイミングだったんだけど、いいところを見せようとして派手にヘッドスライディングしたよ(笑)」
本人は目立ちたがり屋ではないというが、大一番で力を発揮する強心臓、見る者を楽しませるサービス精神が伝わってくるエピソード。将来、言葉の通じない相手にも怯むことなく、チャンスを次々とモノにする男の片鱗がのぞく。ちなみに清水の打席はコマーシャルのタイミングと重なり放送されなかったそうだ。そんな清水が本格的にファッションに目覚めたのは中学1年生、13歳のとき。1971年のこと。
「中学の時は兄貴と同じ部屋だったんだけど、部活を終えて家に帰ったら、兄貴の机の上に『メンズクラブ』のアイビー特集号が置いてあって。洋服は好きだったし、“アイビー”っていう言葉は知っていたし、何気なく手に取った。それでページをめくるとアメリカのアイビーリーガーたちの写真が載っていて、それがものすごくカッコイイわけ。それは兄貴が友達から借りてきたものだったので、すぐに同じものを買った。それからはもう『メンズクラブ』に夢中になってとにかく読み込んだね。特にアイビー特集の1、2、3に関しては、何ページに何が掲載されているかっていうのを完璧に記憶していたくらいに」当時、メンズファッションの情報は少なく、『メンズクラブ』は唯一といっていい情報源だったとか。13歳に出会ってから上京を果たした翌年、19歳まで、毎月欠かさず購読した。その頃の清水の愛読誌リストには、父親が買っていた映画専門誌『ロードショー』や『スクリーン』なども。映画作品に映し出されるファッションを『メンズクラブ』と照らし合わせていたそうだ。

『Made in U.S.A catalog』に出会って、 ファッションにルールなんて必要ないって思うようになった。

高校に進学の際は、中学時代の野球での活躍が認められ、強豪校からのスカウトも来たそうだが、これを固辞。理由は「坊主が嫌だったから」。自由なヘアスタイルを手に入れた高校生の清水は、洋服の魅力にどんどんのめり込んでいく。この頃には将来はファッションの仕事に就くと決めていた。高校1年生となった1974年には、『アメリカン・グラフィティ』が封切られて、じわじわと50sスタイルが流行。原宿では舘ひろしと岩城滉一らがクールスを結成し、人気を集めていた。そんななか、清水は自身のファッション観を根底から揺さぶる一冊の本と出会う。1975年に発刊された『Made in U.S.A catalog』だ。
「強烈だった。それまでは皆〈VAN〉がすべてみたいなところがあったんだけど、『Made in U.S.A catalog』が出てからは、ちょっと違うぞ、と。アメリカの学生たちの着こなしは、なんというかとても自由で。カッコイイってことにルールは要らないんじゃないかなって思うようになった」
表紙を飾る〈LEVI’S〉“501”をはじめ、洋服、ワークブーツ、スポーツ用品、楽器、家具など、日本人が目にしたこともない3000点にも及ぶアメリカ製品を紹介した伝説の本が、清水のアメリカへの憧れを急加速させる。ブレザーを脱いでネルシャツに袖を通し、ボトムスはトラウザーズからジーンズに。山梨から新宿へ通った買い物も、アメリカンブランドを求めて原宿、渋谷、アメ横、横須賀へと行動範囲を広げて行く。
『Made in U.S.A catalog』以降は、古着屋も少しずつ増えたし、インポートショップが買い付ける商品も徐々にカジュアルになっていったと思う。その頃はとにかく〈LEVI’S〉の“501”が欲しかった。上野の「守屋商店」で山積みのジーパンのなかから“501”とか〈LEE〉の400番を探したり、あとは小石川の作業服屋さんとか、吉祥寺の「ウエスタン」、横須賀の「グリーン商会」とかに行ったりね。デッドストックの古着屋なんてないから、雑誌には載っていない、穴場っぽい場所を回っていた。そういう情報はだいたい口コミで広まるもんで。自宅の近所にも〈BIG JOHN〉とか〈EDWIN〉とかを扱ってるいわゆる街のジーパン屋があって、その店のスタッフにもやっぱり『Made in U.S.A catalog』に影響を受けた年上の人がいて。そこに毎週のように通って洋服の情報をもらっていた」
ある時、そのスタッフが来ていたボタンダウンシャツに目を奪われる。明らかに〈VAN〉ではない。やたらデカいんだけど、ものすごくカッコイイ。
「話を聞いたら〈BROOKS BROTHERS〉のものだよと。どうやら仲間たちで注文をまとめてメールオーダーしたものだとか。それで、そこに便乗させてもらって〈BROOKS BROTHERS〉のブルーのオックスフォードシャツをオーダーしたんだよね。届いた時にはものすごく嬉しかったな」
先輩の力を借りて人生初のインポートに成功した清水。学生には高価な買い物だったが、その頃の洋服代は日々のランチ代を節約して少しずつ貯金したほか、夏休みには、親戚の家で葡萄の収穫のアルバイトに精を出した。報酬は高校生としては破格の1日1万円。
「高校生になってすぐバイクの免許を取っていたから、テーラーっていう耕耘機を運転できた。朝から収穫、運搬、梱包と全部の仕事をこなせたから、すごく重宝されてたよ。毎年、夏休みの始めからお盆前まで、20日くらい働いたね。稼いだお金はもちろん、100%洋服につぎ込んだ(笑)」
高校時代の清水に影響を与えたものがもうひとつ。テレビドラマ『傷だらけの天使』である。
「菊池武夫さんがデザインしていた〈MEN’S BIGI〉をショーケン(萩原健一)が着てたんだけど、なにしろカッコ良かった。『メンズクラブ』にも、〈MEN’S BIGI〉が頻繁に出るようになって、ヨーロピアンなテイストもいいなって憧れていた。高校に入って野球は辞めたけど、ラグビーとテニスをやっていて、がっちりした体型だった自分には似合わなかったから着ることはなかったんだけどね」
高校卒業後は上京し、「メンズファッション専門学校」に入学。洋服好きという共通の趣味を持った新しい友達ができ、“ファッションの仕事に就く”という将来に向けて歩みを進めていたが、なんとたった3ヵ月で退学になってしまう。
「『メンズクラブ』に寄稿していたライターが講師を務めているということで入学したんだけど、そこがすごく厳しい学校で、1分でも遅刻すると中に入れてもらえず授業が受けられないんだよ。それで、よりにもよって夏休み前の試験の日に遅刻しちゃって試験が受けられなくて。夏休み、甲府の実家に帰ったら退学通知が届いていた(笑)。それで、学校の先輩たちの話によれば、本気で洋服をやりたいなら『文化服装学院』の方がいいと勧められていたのを思い出して。だけど、また親にお金を出してもらうというのも気が引けたから、授業料分は自分でアルバイトをしてお金を貯めた」
アルバイト先は憧れだった〈VAN〉。「伊勢丹 紳士別館」の地下フロアに配属され、販売員として半年ほど働いた。翌年、無事「文化服装学院」に入学する。
「『文化服装学院』は、50人くらいのクラスで、男は5人くらい。しかも文化にくるようなファッション好きの男はDCブランド一辺倒なヤツらばっかりで、最初はなかなか馴染めなかった。それでもほんのひと握りの共通の好みを持つヤツらに出会えて仲良くなってからは、みんなで原宿を中心にいろいろな洋服屋に通った。その頃は、DCブランドが大ブームの頃だったけど、原宿にはインポートショップが増えていて、しかもアメリカものだけじゃなく、ヨーロッパで買い付けた商品を置く店も増えていたね。〈FIORUCCI〉や〈SASSON〉のディナージーンズのような、ヨーロッパが作るちょっと綺麗なアメリカンアイテムに〈COLE HAAN〉を合わせるようなミックスが始まっていた。あと、斬新だったのは、モリハナエビルの地下のアンティーク街にあった「ブーズショップ」。イギリスのデッドストックを中心に、〈MARGARET HOWELL〉のシャツ、〈ARMANI〉のレザーアイテム、〈TANINO CRISCI〉のジョドファーブーツや〈STEPHANE KELIAN〉のメッシュシューズとか、そういう高感度なセレクトにすごく刺激を受けた。高くて全然買えなかったけど、それでもちょっと無理してシーアイランドコットンのイギリス製のシャツを買ったこともあったな。そういう小規模だけど、カッコイイ人たちが集まってくるお店に入り浸っていた。一方で銀座の「シップス」で扱っていた〈IKE BEHAR〉のシャツ、〈BARRY BRICKEN〉のトラウザーズとか、アメリカントラッドものも欲しかったし、〈COMME DES GARCONS〉もその頃はベーシックなデザインのアイテムが多かったから買っていたり。それで、最終的には、やっぱり自分にはアメリカものが合っているなって再認識した時期でもあった」
アウトドアやヘビーデューティーといったアメカジ、モード感漂うDCブランドやヨーロッパのインポート、それらを独特のバランスでまとめる清水の自由で柔軟な感覚はこの頃に養われたのかもしれない。「文化服装学院」では、通常課程2年に加え、産業技術専攻科で1年間、生産のために必要な知識を学んだ。しかし、この時はデザイナーになる気はまったくなかったそうで、「あくまでも目標はインポートの仕事に就くこと。特にアメリカに買い付けに行く仕事がしたかった」と清水はいう。

卒業後は「文化服装学院」時代からの友人の紹介で、ユニオンスクエアに入社する。
「ファイヤー通りの『ビームス』に勤めていた友人から、近所でお前が好きそうな店がスタッフを募集しているから見に行かないかと連絡をもらって。『ユニオンスクエア』という、レディス向けのサーフスタイルのお店だったんだけど、母体がインポート靴の卸売りをしている会社だった。お店にいたら会社の幹部の人がいて、自分は靴が好きだという話をしたら、それなら近所にある事務所にいろいろあるから見に来いよ、と。誘われてついて行くと、〈ALDEN〉、〈COLE HAAN〉、〈RED WING〉がずらりとあって興奮したね。すぐに面接を受けて入社した」
そして「Namsb」のオープニングスタッフとして働き始める。〈CP COMPANY〉や〈PICCADILLY〉といったイタリアンカジュアルを販売するかたわら、〈GITMAN BROTHERS〉のシャツや〈SMITH〉のペインターパンツといったアメリカものを売っていた同店はすぐに人気となり、自由が丘に2店舗目をオープン。清水はそこで店長を勤めた。しかしその頃、「Namsb」の人気上昇と反比例するかのように、ファイヤー通りの「ユニオンスクエア」は売り上げを落としていた。入社から2年後、清水に転機が訪れる。
「社長が『ユニオンスクエア』をクローズして物件を手放そうか、それともなにか新しいことを始めようかと社内スタッフに聞いて回っていた。先輩たちは誰も引き受けたがらなかったんだけど、俺はずっと『Made in U.S.A catalog』みたいな店をやりたい、って思っていたから手を挙げた。自分にやらせてくださいって」
そして1982年にオープンしたのが「Redwood」だ。洋服の取り扱いはアメリカンワークウエアが中心。目玉は品揃え豊富なワークブーツだった。
「小さな店だったけど、空間が手前と奥、ふたつに分かれている店で、奥側の空間をすべて、店の約半分を靴で埋め尽くした。もともとユニオンスクエアはインポートシューズに強い会社で、海外のシューズブランドのカタログを沢山もっていた。〈RUSSELL MOCCASIN〉、〈MINNETONKA〉、〈CHIPPEWA〉、〈GEORGIA BOOT〉、ワークブーツに関しては知っている限り、すべてのブランドのカタログが揃ってた。それまではそのほんの一部しか輸入していなかったんだけど、社長にこういうブーツを取り揃えた店にしたいんです、って言ったら、オーダーできると。しかもオーダー数量のレギュレーションもわりとハードルが低いってことで、いろいろと取り寄せることができた」
オープンした「Redwood」は、まず同業者の間で話題となり、じわじわとファンを獲得。顧客には山本耀司、熊谷登喜夫といった第一線のデザイナーも名を連ねた。
「〈RED WING〉が2万9000円くらいの時代に、〈RUSSELL MOCCASIN〉の“バードシューター”という6インチ編上げ、ダブルヴァンプのブーツを4万8000円で売っていた。当時としてはかなり高価で心配もあったんだけど、良いものだからと買ってくれる人が沢山いたんだよね」
瞬く間に人気ショップとなり、〈CHAMPION〉の“リバースウィーブ”を始め、数々のヒット商品を輩出する。もっとも売れたのは〈WILLIS&GEIGER〉の“A2”ジャケット。10万8000円の品物がひと月で100枚近くも売れたそうだ。もうひとつ、印象に残っているのが〈REEBOK〉だという。
「晴海でスポーツブランドの見本市があって、イギリスのスポーツブランドの〈GYMPHLEX〉を見に行ったんだけど、マネキンが履いているスニーカーがすごくいいなって思って。聞いてみたらエアロビクスシューズだった。当時はスポーツ用品店と洋服屋が明確に住み分けられていた時代だったんだけど、洋服屋にでも卸せるってことで、仕入れてみた。フリースタイルのローカットとハイカットの2型、色は白と黒。お店に並べても最初は反響がなかったんだけど、その頃公開された、デヴィッド・ボウイとミック・ジャガーのコラボレーション曲『Dancing In The Street』のPVで、ミック・ジャガーが〈REEBOK〉を履いて、しかもPVが始まってすぐステップを踏んでいる足が大写しになるんだよ。その翌日からものすごく売れるようになった」
その頃「Redwood」に新しいスタッフがやってくる。後に「ネペンテス」に加わり、〈ENGINEERED GARMENTS〉のデザイナーとなる鈴木大器だ。
「『Redwood』は基本的に俺1人でやってたんだけど、昼食休憩の間だけ、「Namsb」から店番としてヘルプを派遣してもらっていて、それによく来たのが大器だった。その頃のインポート業界の人はインポート至上主義で、DCブランドを毛嫌いする人が多くて。俺はアメリカものが好きだけど、DCブランドも好きだった。大器とはその辺の感覚が近くて、いろいろと洋服について語り合える貴重な存在だった。それで、『Redwood』が売れ始めて、人手が欲しくなったときに、大器に来てもらうことなった」
前述の〈REEBOK〉に関してはこんなエピソードもある。
「俺が〈REEBOK〉を仕入れた時、大器は『こんな靴、絶対に売れない』って言ってケンカに。お互いしばらく口も聞かなかった(笑)。でもその後〈REEBOK〉が売れ始めて、ある日、山本耀司さんがワークブーツと一緒に〈REEBOK〉を買っていった。そしたらあいつも興味が出たみたいで、俺が昼飯の休憩から戻ったとき〈REEBOK〉を試着してたんだよね(笑)。さんざんバカにしてたくせに『やっぱりいいな』とか言ってね。今でも二人で思い出して笑っちゃうね。大器は『あの時はすみません』って言ったりして(笑)。ちなみに『Redwood』のヒット商品のひとつで、今や完全にファッションの一つになっている6ポケットのBDUパンツは、その当時大器が仕入れてヒットさせたアイテムだったね」
その後、現在も「Redwood」が残る明治通りに移転。“アメカジ”を牽引するショップとして存在感を高めていった。新店舗での最大のヒットは〈NIKE〉の“エアジョーダン”だ。
「〈NIKE〉を洋服屋で取扱ったのは『Redwood』が初めてだった。本社のレギュレーションで、卸し先はスポーツショップのみってことになっていたんだけど、ちょうどマイケル・ジョーダンが活躍し始めた頃、スポーツの見本市でブースを見ていたら、ナイキのスタッフの中に『Redwood』によく来てくれていた顧客さんがいて。ジョーダンだけでもやらせてもらえないかって相談したら、それまでは頑にNGだったのが、紆余曲折を経て最終的にOKに。お店に置いたら案の定、飛ぶように売れた。でもスポーツショップでは全然売れなかったらしくて、それならと日本中の在庫を引き取って全部売り切った」
ワークブーツしかり、〈REEBOK〉や〈NIKE〉しかり。既成概念にとらわれることのないバイイングと情熱で、業界の常識を次々と覆し、ファッション業界の新しい道を切り拓いていった。
「やっぱり、ちょっとへそ曲がりだったんだろうね。どうせやるんだったら人がやってないものを売りたいって気持ちが強かった。商売だけでなく、自分が身につけるものもそうだった。限られたお金で他人と差別化しやすいのは古着で。ペインターパンツが特に気に入っていて、でもそこにワークブーツじゃなくて、銀座の『サンモトヤマ』で買った〈GUCCI〉のビットローファーを合わせたりしてたね」
そして「Redwood」のオープンから5年が経過した頃、29歳で独立。翌88年に「ネペンテス」を立ち上げる。
「その頃、インポート業界は一気にくだけて多様化してきた時代だったと思う。『Redwood』を立ち上げるときに、アメリカものにこだわるというコンセプトを立てていたんだけど、この枠のなかで出来ることはやりきったという感覚があった。もともと30歳には独立したいという気持ちはあったので」
独立後、まずはお店をオープンするために奔走。ロケーションは、青山通りからも、明治通からも、表参道からも少し離れた住宅街、神宮前5丁目の物件の2階。わざわざ目指して行かなければ辿り着けない青山の辺境だった。
「お店のための物件というのは家賃も高くて。そうして候補になったのがあの場所。周りにはまったく店がなかったけれど、良い物を置けば場所が悪くてもお客さんは来てくれるという自信はあった」

嗅覚を頼りに未知のブランドを探す旅は、まるで宝探しをしているようだった。

「ネペンテス」として最初の買い付けはもちろんアメリカ。目指したのはボストンの北、ローレンスという街にあるファクトリーストアだ。
「ポパイでモデルをやっていた、ハーバード大学生のアメリカ人がよく店に遊びに来てた。彼からハーバード大学があるボストンからちょっと北に行ったローレンスって街に、〈RALPH LAUREN〉のファクトリーストアがあるって聞いて。その頃はファクトリーストアって言葉も知らなかったから、いろいろ聞いたら工場直売の店で安いし、今で言うアウトレットのような商品も含めて色々と売っていると。近くに〈NEW BALANCE〉もあるっていう。最初の買い付けはその話を聞いた時にとったメモを頼りに行った。従業員向けの店だったのか、ものすごくわかりづらいところに入り口があって、でも中に入るとちゃんと〈RALPH LAUREN〉。しかもその頃、誰もが欲しいと思っていたデニムシャツとかポロシャツとかが、すごい量で置いてあった。値段も安かったから相当買ったね。お店の人が大喜びして荷物を車まで運んでくれたくらい。近所の〈NEW BALANCE〉では“995”とか“1300”を山ほど買った。あとはLAで買った『フットロッカー』別注のスニーカーやNYの『ブルーミングデールズ』とか、『バーニーズ』といったストアブランドと〈IKE BEHAR〉とのダブルチョップ、サンタフェで買い付けたホピのジュエリーとか、そういうものを置いて店をスタートした」
流木を装飾に活かした10坪程度の空間に、アメリカから持ち帰った品々がところ狭しと並んだ「ネペンテス」は、すぐに人気店となる。その後はメイン州・フリーポートの〈L.L.BEAN〉や〈LACOSTE〉などのファクトリーストアで買い付けをするなどして商材を調達していたが、清水のなかには違和感が生じていた。
「この頃には自分の後任として『Redwood』の店長をやっていた大器も『ネペンテス』に参加していた。店の立ち上げをファクトリーストアのもの中心でやって、買い付けもお店の売り上げも順調だったんだけど、これは俺たちのやりたいことではないんじゃないかって思うようになって。大器も同じ意見だったので、そのあとはアウトレットでの買い付けはやめることにした」
ここから「ネペンテス」の商品ラインナップはどんどん独自性を増して行く。〈THINK TANK〉、〈MMSW WORKWEAR〉、〈1 BY 2〉、〈SIR REAL〉、〈JOHN BARTLET〉などアメリカの進気鋭や、〈ZINTALA〉、〈LUIGI BORRELLI〉といったイタリアのアルチザンが手掛ける実力派ブランドに別注したアイテム、さらには、〈JOHNSON WOOLEN MILLS〉〈ARROW MOCCASIN〉〈DULUTH PACK〉といった知られざるアメリカン・ヘビーデューティを次々と日本に紹介していく。意外なところでは〈TOD'S〉のドライビングシューズを日本で初めて販売したのも「NEPENTHES」だった。
「買い付けの出張では、現地でホテル(モーテル)を探してチェックインしたら、まずはイエローページをめくって取引先になりそうな工場や、サープラスショップ、スポーツショップなどを探す。そいう店には、そのエリア特有の土地に根付いたブランドの古着があったりするから。例えば、バーモントに行った時、ジーンズのデッドストックがあったらいいなって少し期待して入ったサープラスショップに〈JOHNSON WOOLEN MILLS〉があって、初めて見たんだけど、それがめちゃめちゃカッコいい。いろいろ物色していると〈L.L.BEAN〉のタグがついているものもある。それで、紙タグに書いてあった住所をメモして、店を出てすぐに電話した。バーモントのその店からさらに山奥に1.5時間くらい車を走らせてその日のうちに商談した。〈SOUTH2 WEST8〉を立ち上げるきっかけにもなったサンフォージャークロスも、同じような方法で辿って工場を探し出した。俺たちは“嗅覚”って呼んでいるんだけど、ただ闇雲に走り回るんじゃなくて、どんな地域でどんな製品が作られているかっていうのを想像しながら回ってた。だいたい大器が運転して、俺が助手席でロードアトラスっていう地図を広げて。昔は英語もままならなかったから、とにかくアポイントも取らずに突撃していた」
当時を振り返り「まるで宝探しをしている気分だった」と清水は言った。商品を見定める審美眼の鋭さはもちろん、不確かな情報と、自らの直感を頼りに、面白そうなものがあればどんな所へでも行くという行動力で、「ネペンテス」独自のラインアップを作り上げていった。1回の買い付けはおよそ2週間。年間最低でも4〜5回、多い時は10回ほどバイイングという開拓の旅に出た。だが90年代はアメリカンブランドが次々と国内の工場を閉鎖し、生産拠点をアジアをはじめとする国外に移した時代。メイド・イン・USA製品が手に入れづらくなってきていた。
「買い付けや別注と平行してオリジナルも作っていたんだけど、メイド・イン・USAのパンツの仕入れが難しくなってきたので、国内でオリジナル制作を本格的にスタートした。最初は〈ネペンテス〉、そのあとにブタがトレードマークの〈HOGGS〉というレーベル名で。商標の関係で〈HOGGS〉を終了させたあと、もっと大人っぽい解釈のコレクションを作りたいと思って〈NEEDLES〉を立ち上げた。あと、大器がアメリカで〈OPUS〉というブランドを作ったり。その後に、アメリカ製が少なくなった今こそ、アメリカ製の洋服を作る、というコンセプトで、〈ENGINEERED GARMENTS〉が生まれることになる。今でこそ生産拠点をアメリカに戻したり、メイド・インUSAを強みとして打ち出すブランドが増えているけど、〈ENGINEERED GARMENTS〉の影響は大きいと思う。メディアでも大きく取り上げられたしね」

国内で腰を据えてオリジナルを作る事が、ネペンテスらしい表現になる。

メイド・イン・USAに並々ならぬこだわりを持ち続ける一方で、〈NEEDLES〉はそのほとんどが日本国内生産だ。「海外での買い付け品は別注が多かった。単純に見たことのない物が欲しかったというのもあるけど、仮に他の店が同じ工場やブランドとコンタクトをとったとしても、ウチのオリジナリティが保たれるようにという狙いもあった。それでも、同じようなことをやる人たちが次々と出てくる。インターネットの発達もあって、少し買い付けのハードルが下がったんだと思う。そうなってくると、セレクトだけで突出した個性を出すことも難しくなってきた。だったら、国内でしっかりと腰を据えて作り込んだオリジナル商品を打ち出した方が『ネペンテス』らしいかなって。もちろん、海外の良いプロダクトを紹介することをやめたりはしないし、メイド・イン・USAには特別な思いもあるけど、本当に今、自分の中にあるものを表現するには日本でイチから作るのが最良。素材も縫製技術も世界屈指のレベルの国なんだから」
学生時代には「デザイナーになる気はなかった」という清水を、より強く大きくなった表現意欲が創作活動に導いた。最初はインポートの補完的な役割だった〈NEEDLES〉が、徐々に清水のクリエーションをリアルタイムで映し出すブランドに。そして熱狂的なファンを生み出し、その存在感は揺るぎないものとなった。ちなみに、シーズン毎のテーマを打ち出すことは少ない〈NEEDLES〉だが、今季は、70年代のシンガー・ソングライター、ジェームス・テーラーのアルバム『ゴリラ』が発想のベースになっている。ルックブックの表紙を飾る白いジャケットとパンツのセットアップ、手に持ったバナナは『ゴリラ』へのオマージュ。洗いざらしのリネンが涼しげなジャケットやパンツ、フェイドした色合いのデニムやシャツなど、いつも以上に優しくリラックス感のあるコレクションとなった。ベースはシンプルでありながら、柄や細部の仕様で個性的にアレンジされたアイテムを独特のバランスでまとめあげたスタイリングも刺激的だ。
「服のデザインも、スタイリングも、自分の中にルールはあるようでないようなもの。昔『メンズクラブ』で学んだ、アイビーはこうであれ、っていうルールを、あえて崩すアプローチをすることで面白いバランスが見つかったりもするんだよね。例えば、ワークブーツをかなり沢山持っているんだけど、全然履いてないんだよ。俺がこの体格でアメカジっぽくコーディネイトして、ワークブーツを履いたらモロにアメリカのワークウェア好きみたいになっちゃうからね。色、フォルム、テイストなりをちょっとハズした感じが好きなんだよ。俺たちの世代は好きな人が多いんだけど、ウディ・アレンがアカデミー賞で見せた、タキシードにコンバースってスタイルはすごく腑に落ちたね」 王道とアバンギャルドが際どいバランスを保ち、刺激的な緊張感を生む清水のクリエーション。それはデザインやスタイリングだけでなく、ショップ空間のディレクションにも反映されている。「ネペンテス」のオープンから27年経った今も、その感覚は鋭さを増し、新たな試みへの意欲は尽きることがない。
「〈NEEDLES〉のことで言えば、昨年からニューヨークのショールームで取り扱ってもらっていて、アメリカ、ヨーロッパに卸先を増やしているところ。いつか、NY以外にもネペンテスの海外店舗をオープンしたいですね。それとスペイン、イタリア、イギリスなどの実力派ファクトリーで生産する新しいフットウエアレーベルを立ち上げるつもり。ほかには〈SOUTH2 WEST8〉をより“釣り”というテーマに特化したレーベルにしようかと。ヘビーデュティーなアウトドアウエアは最近当たり前になってきたし、それならウチはもっとマニアックな提案をしていていく方が面白いかなって。個人的にはその研究のためにも、北海道にアトリエを作って、シーズン中はずっと釣りをして暮らす、というのが目標だね(笑)」

intoroduction

清水慶三

フルーツ王国の山梨県出身でありながら、葡萄、桃、メロンをはじめ果実全般が苦手。毎晩のお酒は欠かさず、基本は焼酎。ビールやスパークリングワインには氷を入れて飲むのが好き。最近のお気に入りは〈ランブルスコ〉の赤の微発砲。居心地の良い居酒屋をこよなく愛する。限定解除の大型免許を所持するバイク好き。しかしもっぱらの移動手段はサドルを〈BROOKS〉にするなどのカスタムを施した電動自転車。時計も好きで、〈ROLEX〉、〈PANERAI〉などを所有するが、最も数多く持っている時計はマーク・ニューソンがデザインを手掛ける〈IKEPOD〉。趣味の渓流釣りに没頭するため北海道移住を模索する、底なしの好奇心とバイタイリティを持った、衰え知らずの57歳。