「いそがしそうだね」
こう言われると、なんだか悲しい気持ちになる。
まだ若い頃は、忙しくなろうとしていたからよかった。
忙しさにまみれたいと渇望したときもあった。
「いそがしそうだね」
「バッチバチよ!」なんて言っていた。
でもなぜ悲しい気持ちになるんだろう。
「忙しい」の漢字は読んで字のごとく「心をなくしてしまう」
なんて言葉をよく聞くけれど
心はなくさないよ、なんて考えていて
答えは見つからなかった。
先日ふとタイムラインに流れてきた糸井重里さんのコラム。
糸井さんの高校時代の先生が言ったフレーズ。
「多忙は怠惰の隠れみのである」
すごく忙しくしていることが、さぼってる隠れみのになるのか。
ぜんぜん怠けていないじゃないか。
糸井さんはずっとその意味が、いまになってやっとわかったのだそうだ。
多忙な時期は、達成感や幸福感、現実的な問題の解決はできる。
満足も得られる。
でも
「なぜ」やおおきな視野や人間の感情、すぐには役に立たないような
それでいて大事なことが忙しいときにはずっぽり抜け落ちていることが多い、と。
「それどころじゃない」「そんなこと言ってられない」という決まり文句で
ひとりの人間として考えていたいろんな問題を放り出してしまうようになる。
いま、うまくいっていることに甘えてしまって
次にどうなるかという「動き」のなかに身を置くことができなくなっている、と。
悲しくなる理由がわかったような気がした。
悲しくなっているのは、意識や感情じゃなく
自分自身、亜童本体が悲しがってるのかもしれない。
少し前のコラムで、自分に言い聞かせるように
「感動すること」を忘れずに「イメージすること」が大切、と書いたと思うが
いますぐ役には立たないような
もっと手前のほうにある言語化できない「!」が
忙しくすることで、ずっぽりと抜け落ちて、いなくなっている。
「ゆっくりやりなよ」
尊敬する先輩に言われた言葉が頭をよぎる。
心をととのえよう。
近くにいてくれる人とよろこびを分かち合って。
しずかな時間に身をおいて。
うれしい時間のなかに。
お気に入りの場所にでかけて。
忙しくしていても、疲れていても
悲しくなるようでは、だめだ。
人間として、だいじなことを知っていて、実行しているひとが
いい仕事ができるのだ。
怠惰にならないように。