なんだか最近は映画を観ていない。
家でも、もちろん映画館でも。
完全に映画不足。というより心と右の脳みその刺激不足。
ぼやぼやしてると毎日の時間はあっという間にすぎるから
ちゃんと意識的に自分をチクチクしなくちゃ。
ウディ・アレン「ミッドナイト・イン・パリ」を観にでかけた。
本国アメリカにおいては、ウディ・アレン監督作として最大のヒットになったらしく
アカデミー賞で最優秀脚本賞を受賞したそう。
ハリウッドでは売れっ子脚本家のギルが、婚約者とその両親とパリにやってくる。
ギルは脚本家として成功していたけれど、ハリウッドでの仕事に辟易していた。
パリの文化、芸術に強い憧れを持つギルは、小説家としての再出発をパリから始めたいと願う。
セレブな婚約者はまるで相手にせず、マリブの豪邸での生活を押し進める。
そんな彼に、真夜中のパリが用意した不思議な出来事。
黄色いプジョーに乗ってたどり着いたあるパーティ。
そこにはスコット・フィッツジェラルド、アーネスト・ヘミングウェイ、コール・ポーターがいる。
1920年のパリにやってきてしまった奇跡。
憧れの作家や芸術家たちとの邂逅。
夢と現、驚きと喜びの興奮状態の中、創作意欲に目覚めていくギル。
でも、当時の文化人たちはさらに過去の1890年代のパリに強く憧れる。
1890年代の文化人たちは、ルネッサンス期にこそ真の文化があったと口をそろえる。
現状に満足することなく、未来を愛することなく、過去への郷愁を募らせる文化人を皮肉る
ウディ・アレン節。
終始映し出されるは、うっとりするぐらい美しいパリの街並み。
昼の光も夜の表情も、なにもかもが美しいパリの街並み。
ウディ・アレンの映画は最高だった。
いろんなところに織り込まれたアイロニーとハッピー。
上映終了後に残る、なんとも言えないちょっとわくわくうれしいな感じ。
ウディ・アレンの作品を観た後は必ずそんな感覚をもらうのだ。
「ここではないどこか」へ憧れる気持ちは、なんだかとても分かる気がする。
思い出されるは
沢木耕太郎著/「世界は「使われなかった人生」であふれてる』何度も読んだ大好きな本。
「使われなかった人生」ってなんだろう。
それは今ここにある自分の人生ではなく、もう1つの可能性として
「ありえたかもしれない人生」にほぼ等しい。
しかし、それら2つの言葉の間には微妙な違いがある。
「ありえたかもしれない人生」には手の届かない夢といった意味合いがあるが
「使われなかった人生」には具体的で実現可能な人生という意味が込められている、と
沢木氏は書いていた。
ほんのちょっとした決断や選択で、手に入れられなかった人生。
どれぐらいの分かれ道を選んで進んできたんだろうね。
まだどっかで選ばれなかった日々は、待っててくれるんだろうかね。
日常は続いていくね。